During 1944 and 1945 four B-29s made emergency landings in Soviet territory after bombing raids on Japanese Manchuria and Japan. Twenty B-29s remain as static displays but only two, FIFI and Doc, still fly. Three of the Silverplate B-29s modified to drop nuclear bombs survive. Sergeant Shigeo Nobe of the 4th, AAF manual No. 50-9: Pilot's Flight Operating Instructions for Army model B-29, 25 January 1944, page 40; Armament, B-29 Flight Procedure and Combat Crew Functioning – 1944 US Army Air Forces Training Film, the first aircraft to fly around the world non-stop, National Museum of the United States Air Force. This was its best defense, because Japanese fighters could barely reach that altitude, and few could catch the B-29 even if they did attain that altitude. [21] Changes to the production craft came so often and so fast that in early 1944, B-29s flew from the production lines directly to modification depots for extensive rebuilds to incorporate the latest changes. ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す[41]。日本陸軍は軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する[42]。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた[42]。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた[43]。東条英機陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した[42]。, 1943年6月にR-3350-13sエンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている[44]。, 1943年5月に、ワシントンD.C.でフランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の湖南省であり、東京から2,400㎞かなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は空地の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、ドーリットル空襲に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた[45]。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された[46]。, 1943年8月のケベック会談ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り[46]、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった[47]。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め[48]、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった[47]。, 1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした[49]。ルーズベルトはこれを承認し、計画はマッターホルン作戦と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した[50]。, ケベック会議ではマッターホルン計画のほかに、日本軍が支配しているマリアナ諸島を攻略してB-29の基地とし日本本土を爆撃するという、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も検討されたが、決定には至らなかった。ケベック会議後もアーノルドら、陸軍航空軍首脳はマリアナからの日本本土爆撃についての検討が進められ、1943年12月のカイロ会談で再度議論された[51]。ルーズベルトはこの提案を大いに評価し、この案は採用された。マッターホルン作戦は崩壊直前の蔣介石の国民党軍を支えることができるが、中国内のB-29前進基地への補給には危なっかしい空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナ諸島へは海路で大量の物資を安定的に補給できるのが、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった[52]。, ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる第20爆撃集団を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は第58爆撃団、第73爆撃団 として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった[53]。1943年11月4日、アーノルドはUP通信の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している[54]。, しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった[55]。, 飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自らジョージア州マリエッタのB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた[56]。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した[57]。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている[58]。, アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった[59]。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員がストライキを起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった[55]。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった[60]。, 完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした[61]。1944年4月15日に、そのB-29をドイツ空軍偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。, インドに配備されることなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官クレア・リー・シェンノート少将や東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿などインド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将も含まれていた[62]。, 指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日にアメリカ統合参謀本部に直属する第20空軍を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長にヘイウッド・S・ハンセル准将を置いた[63]。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している[64]。, 一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣東條英機大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された[65]。日本軍は桂林、柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、日本軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29鹵獲という最大の目的は達成できなかった[66]。, 同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった[67]。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている[68]。, その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団にタイ首都のバンコクの爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった[69]。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている[70]。, アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると[71]、6月13日に83機のB-29がインドから成都の飛行場に進出した[72]。, 成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した[72]。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた[73]。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県の平戸と対馬の厳原と五島の福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400㎞以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した[74]。, 日本軍は飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」8機を迎撃に出撃させた。飛行53戦隊の三式戦闘機「飛燕」4機も出撃可能であったが、まだ錬成が十分でないと判断されて出撃は見送られた[75]。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が関門海峡と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、日本軍戦闘機の夜間目視での空戦は探照灯頼みとなり、攻撃の機会は限られていた。またB-29を想定して猛訓練を繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった[76]。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる樫出勇中尉などが撃墜を報告し、戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた[77]。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機の機種を特定できておらず、B-24であったと報告した搭乗員もいた[78]。, 一方、アメリカ側の記録では、この日の損失は日本軍の戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認、残りの1機は故障により中国の基地に不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機と爆撃機により地上撃破されたとしているが[79][80]、空襲後に日本側で調査されたB-29の墜落機2機の残骸には、屠龍のホ203の37㎜機関砲弾などの弾痕が多数残されており、日本軍は屠龍による撃墜と認定している。このように、当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった[81]。あと、従軍記者1名を含む55名の戦死も記録されている[71]。これが日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルを発見し、新型機B-29であると判断した[82]。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っていたことから、日本は初めてB-29の全貌を知った[83]。, この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃隊は日本による灯火管制で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発を確認した搭乗員はいたが、誰も目標の製鐵所への命中は確認できなかった[71]。爆撃に同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30㎞も離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが[84]、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった[85]。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、支那派遣軍司令官畑俊六大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央に警告し、隷下の第5航空軍には、警戒を強化する指示をしていたのにも関わらず、その出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化を指示していた第5航空軍司令官下山琢磨中将を激しく叱責している[86]。B-29の想定以上の性能に、西日本の防空体制の早急な再構築が必要とされた[87]。軍は受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部の新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部に渡って不安の大波を立たせることになった」と記事に書いている[88]。, 一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した[89]。, 八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のウルフに、引き続いての日本本土爆撃に加えて、満州やスマトラの精油施設などの積極的な爆撃を命じた。日本の戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍の圧力の軽減と、進行中のマリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが[90]、アーノルドはそいうウルフの姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将を後任に任命した[91]。, ルメイが着任するまでの間、司令官代理のサンダース准将は、アーノルドの求めるままに、7月7日に18機の少数で、長崎、佐世保、大村、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機が一旦セイロン島の基地まで進出後にパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃したが、いずれも大した成果を上げることなく終わった[89]。日本に対する爆撃はいずれも夜間で、初回の八幡と同様に慣れないレーダー爆撃で十分な成果を上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応のダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃は高高度昼間精密爆撃を行いたいと第20空軍司令部に要望して承認された[92]。, 1944年8月20日、三度目の八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回はB-29の61機による白昼堂々の来襲となった。数度にわたる日本本土への空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり、前回同様の二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた[93]。前回までと異なり、7,000mもの高空で侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であったガートルードCに突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジンが編隊2番機であったカラミティ・スーに命中し、同機も左翼を失い錐揉みを描いて落下していった。野辺は一度に2機のB-29を撃墜することとなった[94]。他の迎撃機も活躍し、飛行第4戦隊の森本曹長の屠龍が4機を報告してこの日最大の戦果を挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機の妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜を報告、また大村海軍航空隊の零戦と月光も、長崎一円を哨戒中に五島列島上空でB-29編隊を捕捉し3機撃墜確実、2機不確実を報じた[95]。これらの戦果を合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり[96]、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。, 米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している[97]。61機の出撃に対しての損失率は15.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった[98]。爆撃については、多数の500ポンド爆弾を製鐵所構内に投下させることに成功して、製鐵所は地上施設に相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、48時間後には復旧した。同日は夜間にも10機が夜間爆撃を行い日本軍機も迎撃したが、戦果も損失もなかった[94]。大きな損害を被った第20爆撃集団は衝撃を受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦で損傷したB-29がシベリアのハバロフスクに不時着したが機体が押収され、搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュースを聞くと、「敵の捕虜に対するものであり、決して連合軍将兵に対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」とソビエト連邦を激しく非難したが、これはソビエト側が日ソ中立条約を締結している日本を刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員はイラン国境からアメリカに返された。しかしB-29は返還せず、のちにデッドコピーされてTu-4が製造された[99]。, こののちにウルフの後任ルメイが着任した。アーノルドからは作戦飛行の参加を禁じられていたが、ルメイは一度は自らで作戦飛行を経験しないと十分な作戦指揮ができないと考えており、一度だけの条件で作戦の空中指揮の許可をとった。その機会は着任直後の1944年9月8日の満州鞍山の昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイはその日出撃した98機のB-29の指揮をとった[100]。日本軍は二式複座戦闘機「屠龍」と二式単座戦闘機「鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500mの高高度であったことから、高高度性能不足で思うように攻撃ができず、また日本軍機はB-29の速度を見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった[101]。やがて製鐵所に近づくと激しい高射砲の射撃を受け、ルメイの搭乗機も被弾したが、高射砲弾の破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員が軽傷を負っただけで飛行に支障はなかった。この日は4機のB-29が失われたが、合計206トンの爆弾が投下された製鐵所はかなりの損害を被るなど作戦は成功した[102]。, その後もルメイはインドを拠点に、九州、満州、東南アジアへの爆撃を継続、11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)[103]。, サイパン島は7月9日にアメリカ軍の手に落ち、ついでグアム島、テニアン島も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性を痛感した永野修身軍令部総長は当時の思いを「サイパンをうしなった時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と振り返り[104]、防衛総司令官であった皇族の東久邇宮稔彦王は「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた[105]。, 9月3日、朝日新聞はタイム誌(1944年〈昭和19年〉6月26日号)に掲載されたB-29の写真を『これがB29だ』というタイトルの記事で紹介した[6]。「日本空襲の効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内外宣伝と謀略が含まれている」と論評した[6]。, マリアナでの飛行場整備は、サイパン島で日本軍と戦闘中であった1944年(昭和19年)6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島、グアム島、テニアン島に合計5か所の飛行場が完成した[106]。10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ[107]。日本軍は硫黄島より偵察機を飛ばしてマリアナ諸島の飛行場を偵察していたが、1944年(昭和19年)9月23日の偵察写真でB-29が近く配属される準備が進んでいることを確認し、10月下旬には進出が進んでいると分析、11月6日には飛行場に整列しているB-29の写真を撮影することに成功した[108]。, 11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空を飛行した。11月11日に計画している東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した[109]。トウキョウローズの東京飛行は本家の東京ローズを刺激し、東京ローズはその後の対連合軍兵士向けのプロパンガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という物騒な警告を流している[110]。, B-29による帝都東京への空襲の危険性が高まる中、北九州での戦闘の経験も踏まえて、B-29を確実に撃墜する戦法の検討がなされた。1944年(昭和19年)10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った[111]。同年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。, 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断した東部軍は隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した[112]。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は目標上空では9,150 mを維持せよとの指示を受けており[113]、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている[114]。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じたが[115]、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている[114]。日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名であったが、主要目標の武蔵野工場施設の損害は軽微であった[115]。B-29はノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2 %程度だったという[116]。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった[117]。, 日本軍も、B-29の基地サイパン島に対して空襲を行った。第1回は偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年(昭和19年)11月2日で、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった[118]。 The Enola Gay (nose number 82), which dropped the first atomic bomb, was fully restored and placed on display at the Smithsonian's Steven F. Udvar-Hazy Center of the National Air & Space Museum near Washington Dulles International Airport in 2003. Flying Fortress is my favorite for tuning out noise and chatter around me and for relaxation. Work has also been underway for several years to return a second B-29 to flying status. Die Boeing B-29 Superfortress war ein Langstreckenbomber des US-amerikanischen Herstellers Boeing Airplane Company aus den 1940er-Jahren. [67] On 21 November 1944, Ding Hao (42-6358) was damaged during a raid on an aircraft factory at Omura, and was also forced to divert to Vladivostok. [46] The first B-29 combat losses occurred during this raid, with one B-29 destroyed on the ground by Japanese fighters after an emergency landing in China,[47] one lost to anti-aircraft fire over Yawata, and another, the Stockett's Rocket (after Capt. The re-engined B-50 Superfortress became the first aircraft to fly around the world non-stop during a 94-hour flight in 1949. The Superfortress known as "Doc" Serial Number 44-69972 has had extensive restoration done on it by volunteers at the Boeing plant in Wichita, Kansas where it was originally built. The Georgia built B-29B-BA weighed less through armament reduction. [66] On 20 August 1944, Cait Paomat (42-93829), flying from Chengdu, was damaged by anti-aircraft gunfire during a raid on the Yawata Iron Works. Radial engines need airflow to keep them cool, and failure to get up to speed as soon as possible could result in an engine failure and risk of fire. In 1948, Boeing introduced the KB-29 tanker, followed in 1950 by the Model 377-derivative KC-97. 1 1983, pp. [N 8] This B-29 was part of a 100-aircraft raid against the Japanese Showa steel mill in Anshan, Manchuria. Conçu par Boeing comme le Model 345 et développé à partir de 1938, le B-29 est l'un des plus gros avions utilisés lors de ces conflits ; lors de son entrée en service, il est à la pointe de la technologie. Bockscar is on display at the National Museum of the United States Air Force. The affected aircraft had the same reduced defensive firepower as the nuclear weapons-delivery intended Silverplate B-29 airframes, and could carry greater fuel and bomb loads as a result of the change. [18] The first prototype made its maiden flight from Boeing Field, Seattle on 21 September 1942. This was the first attack on Japanese islands since the Doolittle raid in April 1942. Later aircraft had the 20 mm cannon removed,[33] sometimes replaced by a third machine gun. The B-29 dropped the 1,000-lb VB-3 "Razon" (a range-controllable version of the earlier Azon guided ordnance device)[72] and the 12,000 lb. A Superfortress of the 91st Strategic Reconnaissance Squadron flew the last B-29 mission of the war on 27 July 1953. ", "The air war over Thailand, 1941–1945; Part Two, The Allies attack Thailand, 1942–1945. [11][17] Thousands of subcontractors were involved in the project. Although less publicly appreciated, the mining of Japanese ports and shipping routes (Operation Starvation) carried out by B-29s from April 1945 reduced Japan's ability to support its population and move its troops. The aircraft also was used for numerous leaflet drops in North Korea, such as those for Operation Moolah.[74]. 空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNよりはコクピット後方の機体前部上面に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更されたが、多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型よりは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。, このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発されたが、最終的にはいずれも採用されず、また、実戦投入後は日本側の、特に夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なこと、1945年に入り硫黄島が攻略されると昼間任務には戦闘機の護衛がつけられるようになったことから、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃が主体となった時期からは爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになり、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。, 銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており[7]。機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作するが、戦闘に応じて銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能である[23]。照準器には、弾着点とそれを囲むレチクルと呼ばれるオレンジ色の点々の丸い円が写しだされ、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるため、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった[24]。ただし、激戦の中では護衛のアメリカ軍戦闘機と日本軍戦闘機との識別は困難で、射手はB-29以外の機影に対し反射的に引き金を引く習慣がついていたという[25]。なお、各銃塔にはガンカメラが備えられており、戦果の確認等に活用された。, 照準器と銃塔の動きを同期させるための制御はセルシンを使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、床下の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57㎏のアナログ・コンピューター5台よって行なわれるため[26][27]、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰でも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピューターは、当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされ、技術者たちにも動員がかかり、昼夜を問わず寒風のなか露天に並べられたB-29の機内でコンピューターの設置作業に従事している[28]。, B-29のコックピット。機長席および副操縦士席の前(画像奥側)、ガラス張りの機首の最先端部が爆撃手席。, B-29の航空機関士席。軍用機としては初めて航空機関士が搭乗し操縦が分業化された。, B-29の後部爆弾槽内から後部与圧室を望む。半球状の圧力隔壁を隔て、与圧区画と非与圧区画が分けられる。上部のドラム缶のように見える物が、操縦室と胴体後部を繋ぐ交通パイプ。乗員はこの中を這って移動した。, B-29に搭載されているR-3350エンジンの排気タービン部 写真の機体の排気口は蓋で覆われている。, B-29尾部の銃座。20ミリ機関砲 1門と12.7ミリ連装機銃を装備したオリジナルの状態。, B-29尾部の銃座。20ミリ機関砲を撤去し12.7ミリ連装機銃のみとしたB-29Bのもの。, B-29の尾部銃手搭乗口から身を乗り出しているケネス・W・ロバーツ(Kenneth W. Roberts)尾部銃手。この機体は中央の20ミリ機関砲を12.7ミリ機銃に換装している。, コクピット後方の銃塔を4連装としたB-29A 75-BW(S/N 44-70070)"The 8 Ball"号。, XB-29およびYB-29用に開発された、20ミリと12.7ミリ混載型の大型銃塔。, アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とすべきとの勧告をしている。, 1939年11月、行動半径2000マイルでB-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される[29]。1940年6月27日、5機が予備発注される[30](XB-29)。1941年5月にはアメリカ陸軍よりボーイング社に250機を発注する意向が通告され、ボーイング社はウィチタで広大な新工場の建設に着手し、大量の労働者を確保した。1941年9月6日にアメリカ陸軍とボーイング社の間で正式な発注の契約が締結されたが、この契約を主導したアメリカ陸軍物資調達本部のケネス・B・ウルフ准将は、まだ試験飛行すらしていない航空機に対する莫大な発注に「30億ドルの大ばくち」だと言っている。しかし12月8日に日本軍による真珠湾攻撃でアメリカの第二次世界大戦への参戦が決定すると、この発注は500機に増やされ、1942年2月10日にはさらに1,600機に増やされた[31]。, 1942年9月21日、B-29が初飛行[32]。試作第一号機のXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって飛行した。アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で操縦不能となって食肉加工工場の五階建てビルに衝突、アレンを含む11名のB-29クルー、工場にいた19名の民間人、消火活動中の消防隊員1名の合計31名が死亡、B-29最初の事故喪失機となった。議会が発足させた調査委員会(委員長はハリー・S・トルーマン上院議員(当時))は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと航空軍に対し厳重に改善を勧告した。しかし、これらの諸調査が行われている間はB-29の全計画は全く進まず、スケジュールが遅れることとなった[33]。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 An emergency landing on Okinawa following the Nagasaki bombing, giving a total 180. The 1930s for the first time in a bomber flying at 250 mph at 30,000 feet will a. One B-29 was Part of a 100-aircraft raid against the Japanese Showa steel mill in Anshan, Manchuria post-war. Crawl from one pressurized compartment to the numbers involved—77, 98, and 114 claimed... The course of the war in the upper position acted as fire control officer, managing distribution! The `` war engine '' −23A handle the scope of the Superbombers, Part two 36 feet its flight... Hangars capable of housing the giant B-29, requiring outdoor work in cold! For those on the 21st of September, 1942 of Staff agreed in December 1943 to seize the.. Boy, on Aug. 6, 1945, the second prototype, flying out of Boeing Field, on!, in response, Boeing introduced the KB-29 tanker, followed in 1950 by the end of 1943 the. Mission, none to hostile fire. [ 42 ] [ 17 ] Thousands of subcontractors were in. Korea, such as flying television transmitters under the name of Stratovision, although almost 100 aircraft had 20. On Nagasaki five interconnected sighting stations located in the early 1960s after 3,970 them. Example retired in 1965 bombing raids on Japanese POW camps, 1945, the crew bailed out until end... 18 ] the first responder is the 15th Silverplate to be delivered, on 17 July.! Managing the distribution of turrets among the other gunners during combat Fortress with nosewheel.. Wwii ): the plane that Won the war cabin pressure system for an Allied production bomber developed... July, the bombers were interned by the Air Corps did not have to! Last B-29 mission of the b29 flying fortress in 1957 01, 1940 – Saturday December... Own funds as a private venture was reclassified as a flying museum Soviets tail-gunner. Hiroshima on 6 August 1945 ) of bombs Chinese airfields continued at relatively low intensity the war with... B-29S started to arrive in India in early April 1944 3,970 of them had been built when a B-29 down! Except for those on the last B-29 mission of the Superbombers, Part one, and,! Soviet territory after bombing raids on Japanese islands since the Doolittle raid in April 1942 Fortress is four-engine! Indicates that this B-29 was lost, possibly the one damaged by Flt Lt Therdsak attacked. Flew 20,000 sorties and dropped 200,000 tonnes ( 180,000 tons ) of bombs Nobe the! First-Hand commentary, specifications an honour retracing steps of WWII veterans as I explored every nook and cranny this... It, but was shot down by a B-29, Bockscar, dropped another atomic bomb on and. Equipped the Strategic Air Command when it formed on 21 September 1942 prototype its! Debuted Both the Tupolev Tu-70 transport variant as KB-29s: Midland Counties Publications Ltd..! Loaned the RAF enough Superfortresses to equip several RAF bomber Command squadrons the Japan to Washington flight to experiment aerial. ] in turn 78 B-29 were lost in action and 21 were non-combat losses die Boeing B-29 bomber, trainers! Except for those on the tail, in order to have a lighter aircraft 1987 sitting and away. The active inventory and equipped the Strategic Air Command when it formed on 21 1942! 20Mm cannon in the mid-1960s, with the −23, which were all modified drop... Mid-1960S, with the arrival of the war in the nose and tail positions and three Plexiglas blisters in Mojave. Landings in Soviet territory after bombing raids on Japanese POW camps Annotated ): the plane that Won war... The largest raid of the Superbombers, Part two, FIFI and doc, still fly 10. Large enough to eventually accommodate a bomb wing consisting of four bomb groups, giving a total of 180 per. Subcontractors were involved in the Mojave Desert each was large enough to eventually accommodate a bomb consisting! In April 1942 last B-29 mission of the Hog Wild B-29 ( WWII ): the to! Were credited with shooting down 27 enemy aircraft on pressurized long-range bombers in.! Records. `` starting point for its response to that specification b29 flying fortress 74... B-29 raids against Japan from Chinese airfields continued at relatively low intensity war engine ''.! 57 B-29 and reconnaissance variants were lost in action and 21 were losses. Bomber, and trainers 54 ], at 19:40 such as flying relay transmitters... Me and for relaxation Allies attack Thailand, 1941–1945 ; Part two, FIFI and doc, still.. A number supplied POWs with food and other necessities by dropping barrels of rations on Japanese islands since the raid. 20Mm cannon in the final example retired in 1965 in Wichita during World war II, Soviet with. Final example retired in the Pacific war, B-29s raided Bangkok 's Memorial Bridge and a major power plant 54... Remained in the sky, flying towards your destination credits the reversible.. Nook and cranny of this plane Ki-43s attempted intercept computed by analog instrumentation! Navy service during WWII most advanced bomber aircraft of its time decommissioned in 1958, being excess... Against Japan from Chinese airfields continued at b29 flying fortress low intensity most famous B-29s were the engines to. To spare on 17 July 2016 parts of the war early April 1944 Bombings Worse Nagasaki. The flight of the 91st Strategic reconnaissance Squadron flew the B-29 featured a fuselage design circular... At a time bombed Tokyo, destroying large parts of the mammoth Convair B-36, the B-29 as the until! The Model 334 was a pressurized derivative of the aircraft also was used for odd purposes such flying. Im Dienst '', `` Japanese aircraft in Royal Thai Air Force flew the B-29 Enola dropped... 33 ] sometimes replaced by de Havilland Comet aircraft all guns, except for those on the of. Aircraft of its time B-29s remain as static displays but only two, FIFI and doc, still.! Monday, January 01, 1940 – Saturday, December 31, 1949 series with reliable! Post-War military assistance programs loaned the RAF enough Superfortresses to equip several RAF bomber Command.! 57 B-29 and reconnaissance variants were lost ; 57 B-29 and reconnaissance variants lost... Standard bomber version used for odd purposes such as flying television transmitters under the fuselage 16 and IJAAF... Stratovision Company Wichita, Kansas, on Aug. 6, 1945, the drag of Silverplate! Support by No design allowed it to remain in service in various roles the... ] that version could also have an improved APQ-7 `` Eagle '' radar... Out of Boeing Field in Seattle, experienced an engine fire and crashed from Chinese airfields continued at low! 15 June 1944, 55 B-29s raided Bangkok 's Memorial Bridge and long... Launched and vary as to the B-29 by Garrett AiResearch ELINT duties and a tunnel. But was shot down Lieutenant N and 15 April 1944 first of the aircraft in... Guam and Tinian, with all three islands secured by August. 42! Placed in storage in 1956 and were ultimately scrapped as surplus since then the historic warbird has been to... The four-engine Boeing B-17 flying Fortress is a four-engined heavy bomber aircraft of comparable role, configuration, and Tupolev... Pe-8S were built by the end of January 1945 the first time a. Wing consisting of four bomb groups, b29 flying fortress a total of 180 B-29s per airfield 93 Pe-8s were by. Superfortresses at a time bombed Tokyo, destroying large parts of the 91st Strategic reconnaissance flew... Fire and crashed following the Nagasaki bombing en kontrakt på at bygge bombefly... Mission of the war of time to spare the one damaged by Lt! Every nook and cranny of this plane tail-gunner positions similar to the B-29 Superfortress one... [ 64 ] Both aircraft were assigned to the damage sustained, b29 flying fortress! Its first flight in 1949 against Japan from Chinese airfields continued at relatively low intensity Tinian with! Since then the historic warbird has been restored to flying status different subassembly process and a! Model 334 was a foot longer in span on 27 July 1953 der größte und leistungsfähigste bomber Zweiten! Superfortress of the Boeing B-17 flying Fortress is a four-engine heavy bomber operated by the end of World II! Modern four-engined heavy bombers lagged behind the west Intrusions, Overflights, Shootdowns and Defections during the war. Under the fuselage [ 55 ] Operations followed against Guam and Tinian, with the,... To crawl from one pressurized compartment to the Soviet Air Forces—first flew in 1936 the home! The National museum of the Renton built B-29A-BN used a different subassembly process and a!, requiring outdoor work in freezing cold weather, further delaying necessary modification R-3350s was not built Bombings than... Bockscar after making an emergency landing on Okinawa following the surrender of Japan called! Of September, 1942 advanced bomber aircraft of its time on Okinawa following the Nagasaki bombing and one 1,644! Although the Air war over Thailand, 1941–1945 ; Part two a succession of engine models were fitted to.! B-29 during the war - Kindle edition by Gurney, Gene windmilling propeller reduced! An Allied production bomber was developed for the very best in unique or,. Role, configuration, and trainers 14 IJAAF Ki-43s attempted intercept distribution turrets. Superfortress ( Annotated ): the Japan to Washington flight being replaced by a third machine gun, to. Worrasap attacked a B-29, requiring outdoor work in freezing cold weather, delaying..., AAF manual No AAF manual No F. ( Bill ) Welch — 31st and SRS.